ある日本語教師の日常
1986年6月1日 日本語教師読本「創刊号」巻頭ページに掲載されたものです。(テキスト文はこちら)

取材・構成:苗代沢力=T.T.PRESS
写真:伊藤明彦



 いま、日本にはおよそ3,200人の日本語教師がいるといわれているが、その活動形態や指導方法はさまざまだ。大学や公的機関の教師として教えている 人、民間のいわゆる日本語学校をいくつかかけ持ちで回っている人。また、そのほかにほとんどボランティア活動といっていいような形で、教えている人もい る。活動形態が違えば、それぞれ日常の生活パターンも異なってくる。しかし、日本語教育に対する情熱は皆変わらない。“教え子”たちの熱い視線を一身に浴 びて、頑張る日本語教師の日常とはどんなものなのか-ある日本語教師の日常を追った「密着取材レポート」をお届けする。




(写真上)池袋コミュニティ・カレッジの「日本語教授法講座」で指導する佐々木さん。受講者は主婦が多いが、大学教授やアナウンサーなど、教育やことばの プロも……
(写真下)「魚」はサカナと読むか、ウオと読むか? サカナはかつて「酒菜」と書かれ、酒のつまみに魚がよく食べられるようになって「魚」と表すように なった……

佐々木さんの週間スケジュール

10:30~12:30
西武池袋コミュニティ・カレッジ「日本語教授法講座初級Ⅱ」
18:30~20:30
駒場留学生会館「日本語コース上級」


自己研修

10:30~12:30
江東区文化センター 「日本語教授法講座」
15:30~17:00
西武池袋コミュニティ・カレッジ「日本語教授法講座初級Ⅰ」
18:30~20:00
〃  「〃」

10:30~12:30
西武池袋コミュニティ・カレッジ For Beginners Japanese Course A
13:30~15:00
同「日本語教授法講座初級Ⅱ」
18:30~20:30
同「インターナショナル・サロン」

10:00~12:00
外国人記者クラブ「ジャパニーズクラス」
13:00~15:00
エコール・プランタン(銀座)「日本語教授法上級クラス」

翌日の授業に備えて、日本大学三島校舎(静岡)へ……。(一泊)


日本大学国際関係学部で、時事問題(新聞比較)などを講義


休養




(写真上)空き時間を利用して調べもの。「教える」ためには、こうした員に見えぬ努力が欠かせない。生徒に頼まれていた本も探せた
(写真左中)駒場留学生会館の食堂で。雑談をしながらさりげなく悩みも聞く
(写真左下)留学生会館の「上級クラス」。新聞記事を教材にしながら、読み・書き・文型練習と、総合的な力が身につくよう指導する
(写真右)留学を終えて帰国した中国人の教え子からみごとな「書」が届いた。留学生たちといっしょに解読に挑戦してみる






 佐々木瑞枝さん-外国人に日本語を教えて11年のベテラン日本 語教師である。
 東京・駒場にある財団法人日本国際教育協会「日本語クラス」の講師として各国からの留学生たちを指導するほか、西武・池袋コミュニティ・カレッジに  "For Beginners Japanese Course A" "Kanji &  Japan Today Japanes Course B" のふたつの日本語講座を持ち、さらに毎年夏には イギリス・ケンブリッジに2ヵ月ほと滞在、カレッジで大学生や市民に日本語を教見るなど海外での活動も、 と精力的な活動ぶりだ。
「最初から、日本語教師になろうと考えていたわけではないんですよ。11年前のわたしは、ごくふつうの主婦。家事をしたり、子どもの世話をしたり……。そ れが、ひょんなことから、横田にある米軍基地の将校婦人たちに日本語を教えることになったんてす。いまから思えば、あれが、日本語教師の第1歩だったんで すね」ときっかけを語る。
 基地通いが3年ほど続いたころ、今度はアメリカン・スクールの教壇に立ってみないか、という話が舞い込んだ。
 「でもね、わたし、きちんとした教授去を何ひとつ知らないことに気付いたんです。それで、日本語教育学会め研修を受けることにしたんですが、これがいま のわたしの基盤のようなものになっているんです」
 現在の佐々木さんは、-日本語教師にとどまらない。前述した日本語教師としての活動のほかに、日本語教師養成講座の講師としても活躍、後進の指導にあ たっている。最近は、外国の報道機関の特派記者らで作っている「外国人記者クラブ」や池袋コミュニティ・カレッジの「インターナショナル・サロン」など で」外国人たちと、さまざまなテーマで語り合う、という仕事も舞い込んで、多忙を極める毎日だ。

 取材の日。佐々木さんの手帳には、次のように記されていた。
〔10:30A.M.~12:00A.M.〕池袋コミュニテイ・カレッジ「日本語教授法・初級II」
〔6:30P.M.~8:30P.M.〕駒場留学生会館「日本語クラス上級」

 佐々木さんはふたりの娘さんの母親でもある。朝、下の娘さん(高校生のためにいつもどおり弁当を作り、いっしょに朝食を取る。昨夜遅くまで起きていた上 の娘さん(大学生)に声を掛け、マンションを出たのは午前10時すぎ。
 西武池袋線ひばりが丘駅までほ歩いて3分足らずの崖巨離。教室のある西武百貨店スポーツ館8Fまで約20分で着く。
 フロントの講座担当者と簡単に打ち合わせを済ませ教室へ-。
 教室にばすでに十数名の受講生が姿を見せていた。出席者の確認をする。まだ何人かが来ていない。仕事を持っている受講生もいるから、間に合わない人がい るのはしかたがない。
 この日の授業内容は「日本語史」。あらかじめ用意していた教材プリントを配る。佐々木さんが日ごろ外国人を指導するなかで問題になる日本語が取りあげら れている。
「『木の葉』はキノハカ\コノハか。『粉雪』はコユキか、コナユキか」
「『甲観音さま』は、カンオンサマではないのか」
 最初の問題では、ことばが時代とともに変化していく過程を、次の問題では、連声(れんじょう)現象と呼ばれる音韻の変化を学ぶのが目的だ。上級クラスだ けに、相当にレベルは高い。「キチンとした日本語教師を育てたいんです」-佐々木さんの口ぐせである。

 午後5時、駒場。
 留学生会館食堂で、学生らと共に夕食。学生たちの母国は、アメリカ、東ドイツ、韓国、ザイール、マレーシア、メキシコ……。来日して4ヵ月から3年だと いう。彼らの流ちょうな日本語」たどたどしい日本語が食堂にあふれる。
 この日の授業のテーマは「フィリピン大統領選」。日本の新開を読みなす勉強だ。読み、書きが主体。当然会話はすべて日本語。
 漢字圏の留学生は、漢字の意味はわかるが読み方がわからない、という。母国のことばの発音特徴からどうしても日本語の正確な発音ができない人もいる。佐 々木さんは、ひとつひとつ、即座に誤りを指摘し、矯正する。留学生たちも真剣だ。
 一定の在日期間内にできるだけ日本語を理解しようとする彼らにとって1回1回の授業は貴重この上ないのだ。
 授業後に、相談をもちかけられれば、それにも応じる、というのが佐々木さんの姿勢。帰宅するのはいつも夜の9時、10時。
「家族の理解に支えられている部分が多い」と左々木さん。



 佐々木さんの休日は火曜日と日曜日。だが、自宅にいても下調べや教材研究に費やされる時間が少なくない。
 ふたりの娘さん、美菜さん、由花さんはいう。
「小さいころから、ずっとそうだったから別にイヤだと思ったことはないわ。むしろ、外国人のお客さまが多い生活は刺激があって楽しいし、いつでも(母親 が)イキイキしてる姿ってステキだと思うわ」
 テレビ局勤務の御主人は、1年の大半が外国出張。家庭にいる時間は少ないが、機会あるごとに仕事上のアドバイスをしてくれるという。
 長女・美菜さんは、犬学では民俗学を専攻しているが、「将来は母のように外国人に日本を理解してもらう仕事に就きたい」と話す。すでに週一日、スェーデ ン人夫妻に日本語を教えて1年になる、という。
「日本のことを聞かれて答えられないのは、すごくくやしいの。私にとって母は友だちみたいなものね」と屈託がない。近く、母親の講座の受講生のひとりにな るのだと張り切る。そのかたわらで次女・由花さんは、佐々木さんの原稿をワープロで清書
する。
「母は機械オンチなの。わたしは、こういうの好きだから、母や姉とはまた別の道を行くことになると思うわ」
 そんな娘さんたちを頼もしそうに見守る佐々木さんのまなさしは、母親のそれである……。